執着を手放すには

師から学んだ大切なことのひとつに、

苦しみの正体は「執着」である、

という教えがある。

 

これは2500年前にブッダが行き着いた答えであり、

極めてシンプルな事実なんだと僕は思う。

 

人生は苦しみに満ちている。

苦しみとは、思い通りにならない時に生ずるもの。

思い通りにしたい、という執着が苦しみの根源である。

この執着を手放していく事で、人は苦しみから解放される。

つまり、思い通りにならないことを受け容れることが、人生の極意である。

 

受け容れること。

これは般若心経にも繋がる、大切な真理である。

まさに、諸行無常の世界なのだ。

 

実にシンプルな答えだが、

執着の無い人間など、ほぼほぼ存在しない。

そして、執着というのは、実に手強い。

何層にも折り重なって、その人のアイデンティティを形成しているんだと僕は思う。

 

とはいえ、やはり執着そのものは苦しみに繋がるので、

時間をかけて、ゆっくりと、ひとつひとつでいいから、

その執着を手放す方向に僕は行きたい。

 

全ての執着が手放せるのか、

それは分からないけれど、

全てを手放すと思えばそれも執着のひとつになる。

 

となると、執着を手放すという意識よりも、

「流れに身を任せて、ひとつひとつを受け容れる」、

という意識がベストなんだと僕は思う。

 

仕事が上手く進まない、受け容れる。

相手に理解してもらえない、受け容れる。

友達が離れていった、受け容れる。

体調が優れない、受け容れる。

祖母が亡くなった、受け容れる。

 

そもそも、人生なんでも思い通りに行く、と思っている人の方が少ないだろう。

みんな薄々気づいているんだ。

ただ、受け容れるのが苦しくて。

でも本当は、自分の思い通りに行く事なんて何一つ無い、ということを受け容れた方が、

苦しくないんだ、というある種のカラクリなんだと僕は思う。

 

また別の観点から。

今、自分に起きている様々な事象は、全て必要だからそこに存在している。

例えば失敗も、今、失敗する必要があって失敗するのだ。

全ては自分にベストなタイミングでやってくる。

幸も不幸も。

今、その経験をする必要があるから、その体験が起きているのだ。

 

結局、ただ受け容れるだけ、で良いのだ。

その本質は変わらない。

極論、そのひとつひとつを体験するために、今世生まれてきたのだから。

 

しかしながら、即刻、全てを受け容れられる人はいない。

それでいいんだ。

ゆっくりと、ひとつひとつ、気づいた時だけでいいから、

受け容れる。

時間がかかるのだ。

それも受け容れる。

失敗もする。

それも受け容れる。

 

うん、受け容れる。